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1、繰り返される失敗の要因
折に触れて書いてきたことだけれど、戦前からのこの国のありようが、コロナ禍でも再現されてしまったのではないか、と思えてならない。
チッソ水俣工場の新プラントの場合は改良が必要だと、福島第一原発の場合は防潮堤をかさ上げする必要があると、非常時に備えた対策が進言されていた。にもかかわらず、それを怠ったために、水俣病も原発事故も起こった。
その結果、原因企業は膨大な補償をしなければならなくなってしまった。
コロナ禍が起こって、感染症対策部門がコストカットの対象にされ続けていたことが分かった。くわえて、コロナ対応の病床の拡充も急務であることもわかった。けれども、日本の企業が誇る検査機器をつかった検査センターの全国的設置をするでもなく、むしろ公立病院の病床削減をコロナ感染拡大期に並行して行うという、ちぐはぐな対策。
その結果、経済がひっ迫しているのに、有効な対策が打てずにいる、という現状・・・。
にもかかわらず、首相も都知事も、主にやっているのは、感染対策の徹底を呼び掛けるだけ。
〈対策が不十分でも何とか乗り切れるだろう〉という、戦前からの楽観的な精神風土を、いまだに引きずっているような気がして仕方がない。
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2、責任をとろうとしない権力
そして、スケープゴートにしている飲食店へのきめ細かな補償はせず、不十分な協力金を出すだけ。
私権を制限はするけれども、きちんと保障もする諸外国との大きな違いが、ここにはある。
それは、権力が責任を取ろうとしない点だ。この点も、これまで強調してきたように、戦前から続く悪しき慣行である。
最近、鴻上尚史さんと佐藤直樹さんの対談書『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書、2020年)を読んだのだけれども、おもしろいことが書かれていた。
鴻上さんはハッキリこう述べられている。
「『要請』ですから、最終的に政府は責任をとらなくてもよいわけです。~中略~日本は責任を国民に押し付けるシステムです。」(25頁)
それの意見に呼応する形で、佐藤さんも明快にこう述べられている。
「その通りです。そこが問題なのです。要請に従うかどうかは任意である、君たちの自由意思である、というかたちの責任逃れ。」(25頁)
そうした予言は見事に当たり、東京都は、補償ではなく、協力への謝金しか出していないにもかかわらず、時短命令に反した企業への過料を科す方向で動き出した。
そしてついに、そんな見せしめ的な対応に業を煮やし、堪忍袋の緒を切らした企業(グローバルダイニング)が、東京都を提訴する事態になってしまった。
【参考記事1】
『東京新聞』「コロナ時短命令「違憲、狙い撃ちされた」 飲食チェーンが東京都を提訴」2021年3月22日
https://www.tokyo-np.co.jp/article/93026
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3,竹やりの精神では、もう、もちそうにない。
こうした状況を見て、鉄砲の玉もなく、食糧もない中で、合理性を欠いた戦略で戦争を続け、結果として経済まで大崩壊させてしまったあの時代から、この社会は何も変わっていないのかもしれないなと思うと、暗澹たる気持ちになる。
その結果、最悪の場合、この国の経済は傾いてしまう。
戦前・戦後の精神風土から連なっているコロナ禍の日本の現状と、コロナ対応に成功した国や地域の取り組みとを比べてみたとき、みえてくる有効な対策は、平時からの準備と、科学的知見にもとづく初期対応と、みんなが安心できる十分な補償である。
こうした対策の早期実施こそが、困難を乗り越えるための近道であるはずだ。
【参考記事2】
『JB Press』青沼陽一郎さん「国民へのお詫びとお願い、それ以外に首相は何してる」2021年3月7日