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2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災およびその後の津波災害により犠牲になられた皆様のご冥福をお祈り申し上げますとともに、ご遺族の皆様に心より哀悼の意を表します。
2014年の1月。ある学会の若手会員研究会のプレ企画で、甚大な津波の被害を受けた南三陸町を訪問しました。東日本大震災の発生から10年の節目に、このとき書き残していた日記を修正し、3日にわたりアップさせて頂きます。
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1、はじめて南三陸町へ
ある学会の若手会員研究会のプレ企画で、はじめて南三陸町を訪問した。
津波が来る直前まで防災無線で避難を呼びかけ続け、お亡くなりになった遠藤未希さん。遠藤さんが最後まで職務を全うされた現場の、骨組みだけになった南三陸町防災庁舎を前にして、ことばを失った。ただただ、お亡くなりになられた皆様のご冥福をお祈りすることしかできなかった。
https://kahoku.news/articles/20210222khn000022.html
当時の状況について説明くださっている宮城学院女子大学の浅野富美枝教授(当時)のお話を拝聴しながら、被災地の状況を目の当たりにし、考えさせられることばかりの訪問だった。
その中でもとくに印象に残ったのが、東日本の発生直後、全員が避難して助かったという戸倉小学校の奇跡のお話だった。
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2、戸倉小学校
戸倉地区は、南三陸町防災庁舎のあった志津川地区から、ホテル観洋のある岬を挟んで南側に位置する地区である。平野部は工事用の車両以外は何もないさら地となっていた。ここに人びとの息づく街があったとは、にわかには信じられない光景だった。
この平野部の一角に、戸倉小学校は建っていた。いまでは、小学校があったのを物語るのは、あちこち盛り土されたさら地の一角に佇む門柱だけである。
こどもたちと教職員は、津波の際、三階建ての校舎の屋上に避難するよう指定されていた。だが、戸倉地区を襲った今回の津波の波高は最大で30mにも及んだというから、もし規則どおりに避難していたら、多くの命が失われていただろう。
どのような判断が、全員のいのちを救ったのだろうか?
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3、先生たちの話し合いと英断
結論からいうと、全員のいのちを救ったのは、先生がたによる議論と、その結果としての規則に縛られない英断だった。
浅野教授によると、全員が助かった背景には、次のような経緯があったという。
戸倉小学校では、東日本大震災の発生した3月11日の3日前に東北地方を襲った地震に触発されて、翌日、避難訓練を実施することになった。そして、先生たちは、職員会議を開き、避難場所について話し合った。
防災規定では、学校の屋上が避難場所となっている。しかし、会議の結果、地域の裏山(宇津野高台)にある小さな神社が、あらたな独自の避難先として選定された。
ここには、いのちを守るという大事な問題について、とことん話し合う先生がたの姿勢と、その判断を尊重する校長の英断とがあった。
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4、戸倉小学校の奇跡
そして、避難訓練から2日後の、2011年3月11日、14時46分。
東日本大震災が発生。
揺れが収まったあと、戸倉小学校と、小学校に隣接する保育園の子どもたち、および教職員のみなさんは、2日前に訓練したとおり、宇津野高台に避難した。
そして、全員が、難を逃れることができたのだった。
その夜。保育園児と低学年の子どもたちは、お社のなかで眠り、高学年の子どもたちは境内で夜を明かしたのだという。
町が津波にのみこまれていくのを目の当たりにしたあと、夜の帳がおり、寒くなっていくなかで、こどもたちはどれだけ不安な夜を過ごしたのだろう。そう思うと、いたたまれない気持ちになる。
でも、みんな、おたがいに励ましあったんだろうな。全員が助かって、本当によかった・・・!
浅野教授の話を伺いながら、心の底からそう思った。