~~~~~
1、イチケイのカラス
年度末。ゼミ生の卒論、修論の追い込みの時期にくわえ、今年から就任した教務関係委員の業務も重なり、仕事がぜんぜん終わらない・・・。
だから、今日も自主的に休日出勤をして、朝早くから6時間近く仕事をして帰宅した。
長男の昼御飯のために研いだお米を電子ジャーに仕掛け、長女のラーメンを作ってあげたら、もう自分のご飯を作る気力すら残っていなかった。久しぶりのぎっくり腰で辛いのも手伝って、ソファーに寝転がりながら、フジテレビのドラマ「イチケイのカラス」を観ていた。
K子さんが、患者さんから「面白いよ!」と教えてもらってから見始めた「イチケイのカラス」。患者さんの言うとおり、これが何度見てもまったく飽きない。めちゃくちゃ面白い。
みなさんご存じのとおり、裁判官は人事権を握られていて(注1)、憲法に定められている「自己の良心のみに基づいて」判決を下せないことが往々にしてあるらしい。
でも、主人公の入間みちお裁判官は、そんなことは意に介せず、あがってきた情報が疑わしい、あるいは不足していると思ったら即座に職権を発動し、裁判所主導の捜査を開始する。
◇◆◇◆◇
2、99%!
刑事裁判が難しいのは、基本的に、犯罪の起こった現場を、その場に居合わせた人間しか見ていないという現実にある。被害者は、傷を負ったり、不幸にして亡くなったりしていて、特定されやすいかもしれない。刑事裁判の難題は、そのいっぽうで誰が加害者なのか簡単には判らない、という点にこそある。
それにもかかわらず、裁判官は、検察が容疑者を起訴してきた段階から、誰が加害者かを認定し、無罪か有罪かを判断し、有罪と判断した場合は罪刑を課すよう強いられる。しかも、裁判官にはさらなるプレッシャーがある。それは、日本での刑事裁判における被告人の有罪率が99%を超えるという現実だ。それだけの数字を見せつけられると、誰だって「今度も有罪なのでは?」と思ってしまう。それは私たちと同じ人間である裁判官だって同じだろう。
99%のカラクリは、検察が「無謬性主義」の原則を自らに勝手に課しているのもひとつの背景としてある。検察官は、検察が間違うこと(無罪の人間を起訴すること)など絶対にあってはいけないという無謬性のプレッシャーがあるために、容疑者を起訴するかどうかの段階で、有罪になりそうにない場合は起訴しない傾向にあるのだ。裏を返せば、起訴される容疑者は、よほど証拠が固められた人間だけなのである。
だから、日本では、刑事裁判の有罪率が99%を超えるという現実があるのだ。
ただし、提出される証拠は警察や検察の裁量によって取捨選択されたものであって、被告人の冤罪の可能性が排除されているわけではない。にもかかわらず、裁判所が疑わしい部分の証拠を出すよう命じても、警察は「不見当」と、すなわち探したけれども見当たらないと白を切ることができる。だから不十分な証拠に従って判決を出すしかない。「イチケイのカラス」ではその辺の理不尽さも描かれていて、とても興味深い。
◇◆◇◆◇
3、現場は誰も見ていない!
殺人事件の場合は、一体だれが犯人なのか、法廷で審議する人間は、裁判官、検察官、裁判員、弁護士を含め、だれも目にしていない。目撃者の記憶だって、心理学の分野では常識である通りけっしてクリアだとは言い切れない。なのに、集められた証拠がすべて提出されるとは限らない。だから、袴田事件、狭山事件、大崎事件など、殺人事件では冤罪が起きやすい(注2)。
それは、傷害事件、窃盗事件だって同じだ。いったいなぜそういう事件が起こったのか、背景は当事者にしか分からない。だから、入間みちお裁判官は裁判所主導で真実を徹底的に明らかにしようとする。だからこのドラマは面白い。日本では、「犯人」を捕まえるまでを描くドラマは多いけれども、真実を明らかにしようとするドラマは極端に少ないという事情も手伝っている。
被告人が真犯人でない限り、法廷のなかに殺人事件の犯人を知る人は誰一人としていない。そんな法廷の場は、まるで、真実を想像しストーリーを創りあげていく遊びの場の様相を呈している。だからこそ、『ホモ・ルーデンス』(人間はそもそも遊ぶ存在であるという意味)の著者、ヨハン・ホイジンガは、法廷は遊びの場のひとつだと言い残したくらいである。
人を裁くことの難しさ、裁判所の抱えている闇、真実を暴くことの苦しさといったことを熟考したい方には、「イチケイのカラス」は本当におススメのドラマである。そうだ、先週「イチケイのカラス」の映画が公開されたのだった。仕事に余裕が出てきたら、家族みんなで観に行こうっと!
~~~~~
(注1)新藤宗幸(2009)『司法官僚―裁判所の権力者たち』岩波新書
(注2)小坂井敏晶(2011)『人が人を裁くということ』岩波新書