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~大村さんからのお手紙(続き)~
工事との関連を12月20日の説明会で形だけ認めた事業者はその後、家屋の破損などの被害に対して「補償」交渉を個別に、被害者が横につながることを忌避し、あくまで個別に、分断して進めています。責任の所在を具体的に認めたうえで、「補償」ではなく損害「賠償」を行うべきと私は考えるのですが。
12月20日の事業者による説明会は、対象者を狭く限定して案内文書をポスティング、その案内文書に記名して会場に持参しないと参加できない、メディアは排除、参加者がメディアに録画などを提供することも禁止するという、どこの国の出来事かと疑う設定でした。我が家はポスティングの対象外でしたが、被害発生地点と同じ町内の居住者であると主張して何とか入場を認めさせました。しかし、質疑応答の時間に挙手を続けていても、一向に指名されない。この日は2回、同じ内容の説明会があったので、2回目にも何とか参加したが、やはり発言を認められないまま終了。
さすがに堪忍袋の緒が切れて抗議すると、ネクスコ東日本の若い職員たちが目の前に(ソーシャル何とかは無視して)立ちはだかり、
訳の分からない耄碌爺さん(少し当たっている)扱いされて、排除されました。
その際、「出ていきなさい」とあからさまに言う職員がいれば、「よろしければご自宅にうかがってご意見を個別にうかがいますよ」と優し気に言う職員もいます。
公開の場で、1人ひとりの市民が訴えや意見を出し合い、互いに耳を傾け、行政や事業者が答えて議論を重ね、問題を深めるーーそういう場を彼らは忌避し、排除したいのです。被害者を分断して囲い込むこと、私が説明会で発言を封じられたこと、これらはつながっています。
少し飛躍するけど、国会での政府のはぐらかし答弁や「差し控えます」答弁の横行とも、これは同根です。
3・11の後で「熟議の民主主義」が語られ、いくつかの試みもなされたけれど、いまや、遙かに隔たった地点に私たちはいることを、痛く感じています。
~明日へ続く~
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こんなことが、21世紀の日本であるのか。
心の底からビックリしました。
昨年12月29日の記事【公共事業と生活8】で、私は、補償は個別にしか応じないという、およそ加害者とは思えないビックリの高圧的な姿勢に、分断の意図を感じると書きました。
大村さんは、住民として、それを如実に感じていらっしゃいます。
これではたして、誰もが納得するような解決に向かえるのか。
疑問が残ります。
やはり公共事業は、当事者である住民が、計画段階から参画できないとおかしいと思うのですが、長くなりそうなので、この点については次のブログで考えたいと思います。