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1、近未来を占うために歴史に学ぶ
ここまで、②人災であるにもかかわらず、①〈竹やりの精神〉で不十分な対応しか為されない中で、③国民のいのちが軽く扱われてしまったという、戦争とコロナ禍との共通点を描いてきた。
戦時中、この②⇒①⇒③というプロセスを辿るなかで、社会のなかでの多様性がどんどん失われ、それが要因となって経済が収縮していったという歴史上の事実を、見逃すことはできない。なぜなら、戦時中の日本社会とコロナ禍中の現在とに多くの共通点があるのなら、多様性の喪失の結果としての経済危機は、この国の近未来の姿を占うものであるかもしれないからである。
ポストコロナの時代、もしもそうした経済危機が襲ってくるとしたら、私たちの生活はめちゃくちゃになってしまう。だとしたら、そうではない「現在の延長とは違うかたちで」の未来を創造する(同上書160頁)ために、戦争を遂行した結果としての経済状況を知ることは、とても重要な作業になってくる。
ということで、今日はこの作業を行っていきたいと思う。
《参考文献》
・苅谷剛彦・吉見俊哉著(2020)『大学はもう死んでいる? トップユニバーシティからの問題提起』集英社新書
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2、情報産業の収縮
周知のとおり、戦時中の日本では、軍部による独裁が進んでいく中で、様々な局面での多様性が失われていった。そして、それと並行するかたちで、様々な産業の収縮が起こった。
たとえば、軍部批判を許さない検閲が続けられた結果、情報産業の衰退と収縮が起こった。
のちに自由民主党総裁となって第55代内閣総理大臣に就任したジャーナリストの石橋湛山は、戦時中、『東洋経済新報』での論説などを通じて、平和な国際関係の下での自由貿易こそが、日本の国益にかなっているという信念から、軍事大国化をめざす政府の政策を批判し続けた。その結果、『東洋経済新報』は何度も発禁処分を受けた。
ほかにも、言論弾圧の代名詞ともいえる「横浜事件」が起こったり、三木清や戸坂潤の逮捕のように発信力のある哲学研究者が弾圧されたりした。
結果、多様性を喪失した情報産業は、物資の不足も相俟って、収縮を余儀なくされた。
《参考》「何で捕まったかわからない──いま、横浜事件を考えてみる」『日本劇作家協会』ホームページ
http://www.jpwa.org/main/genronhyogen02/yokohama1
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3、文化を担う産業の収縮
よく知られているように、大正時代から昭和時代の初期にかけては、モダンな文化が花開いてもいた。
昭和初期の映像記録を見ると、華麗なファッションに身を包んだ女性たちの姿が映っている。しかし、戦争の総動員体制の深まりとともに、そうしたファッションは贅沢とみなされ、服飾業界が収縮していく。
音楽に関係する産業も、収縮していった。
ウェブサイト『ジャズ喫茶案内』によると、アメリカ発祥のジャズは、神戸や横須賀などの港町で花開いていった。1920年代には、蓄音機でジャズを聴かせる喫茶店だけでなく、生演奏も聴けるジャズ喫茶も登場していた。しかし、そうした飲食業も、ジャズが敵性音楽とみなされて以降は転換を余儀なくされて活気を失い、ジャズで生業を立てるアーティストも窮地に立たされていった。
軍部による、敵性・贅沢といった価値観の画一化が、世の中のあらゆる局面での多様性を奪い、それとともに様々な産業が収縮した。理不尽な理由によるそうした多様性の剥奪により、多くの人が仕事を失っていった。
《参考》「ジャズ喫茶はいつからジャズ喫茶となったのか」ウェブサイト『ジャズ喫茶案内』2016年5月12日付記事
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4、世帯所得が100から40へ!
このように、戦争遂行の過程で国民生活から多様性が剥奪されていった結果、経済はどうなったのだろう?
私たちに一番おおきな影響を及ぼす世帯所得の経年変化からみると、戦前のいちばんいいときを100としたとき、終戦の年の1945年は40にまで落ち込んでしまった(雨宮2008)。
世帯所得が500万円だとしたら、200万円にまで落ち込む、そういう状況になってしまったのである。
アジア太平洋戦争は、日本を中心とした国体をアジア全域に広げ、欧米列強からアジアを解放し、豊かにするための戦争だというのが、軍部の大義名分だった。しかし、それとは裏腹に、戦争によってアジア太平洋全域で2000万人以上の尊いいのちが失われ、国民経済も崩壊した。
それが、人災としての戦争を非合理的な〈竹やりの精神〉で乗り切ろうとし、市民のいのちを軽視した末の結果だった。
《参考文献》
・雨宮昭一著(2008)『シリーズ日本近現代史⑦ 占領と改革』岩波新書
〈追記〉1の部分を読みやすく修正しました(2021年1月31日)