◇狭くて太鼓が取り出せない!
ゆうべ、ある小さな事件が起こった。
三男のCくんは、おもちゃの棚から、2歳のちっちゃい手でも皮の両側面が掴めるくらいの小さな太鼓を、なんとか自分で取り出そうとしていた(この太鼓を買ったお店の思い出は3月31日に記したい)。
ところが、太鼓は籠に入れて棚に収納してあったものだから、取り出そうとしても、すき間が太鼓の側面の幅くらいしかない。それなのに、Cくん、無理やり取り出そうとしたものだから、太鼓の側面を手のひらに抱えながら、太鼓の皮の部分両面をガシッとつかんでいる親指と反対側の4本の指とが、棚と籠の間に挟まって身動きが取れなくなっていた。事態の深刻さに気付いたCくんは、「痛いよ~!」と泣きはじめた。
私は、「こうすれば取れるヨ!」といって、まずはCくんの指を太鼓ごと奥に押しやり、手を太鼓から離させたあと、まずは手を棚の外に引き出し、次に籠を引き出し、太鼓を取ってあげた。
〈2歳児って、引いてダメだったら押してみる、といった駆け引きは、まだまだできないんだな~〉と、勝手に納得している自分がいた。
Cくんと、こういったやりとりをしながら、学生の時分に、20世紀の心理学の大家、ピアジェの『思考の心理学』を読んで「興味深いな~!」と感じたのを思い出した(※1)。
ピアジェは、人間の成長に関して、次のように書き残している。こどもは、赤ちゃんから徐々に大きくなっていくにつれて、他者との物を介したやり取りをしながら、ゆっくりと、いろんな概念(シェーマ)を学び取っていくのだ、と。
概念っていうと難しく聞こえるけど、要は「対象」「空間」「因果」「時間」といった、私たち大人なら誰でも理解できる類のものである。いま大人の私たちからみたら「そんなの当然のことを言ってるだけじゃん!」と思われるかもしれない。けれど、なんにも知らない赤ちゃんにとって、そんな未知の概念を体得していくのは一大事なのだ。
こどもの成長におけるそんな重要事を発見したピアジェは、とてもすごい人だと思う。大発見だといえるとも思う。
なぜか? ここからは、その点についてすこし具体的に考えてみたい。
◇あやされながら、自分とは別の存在に気付いていく赤ちゃん
突然の質問で恐縮だけれど、みなさんは、赤ちゃんを前にしたとき、どんなあやし方をするだろうか?
「かわいいでちゅね~」「ほっぺた気持ちいいでちゅね~」といったように、赤ちゃんをナデナデしながら言葉であやす、という方法がひとつある。
ほかにも、赤ちゃんと物をやり取りしながらあやす方法もある。まだ起き上がれない赤ちゃんに「これは〇×△というんでちゅよ~!」と言いながら物を見せ、ときには握らせてみながら、覚えられるはずもないのに必死で説明している自分に気付いて、びっくりするときがある。赤ちゃんがいざ座り始めるようになると、ちょっと届かないくらいのところにおもちゃを置いて「とれるかな~?」なんて言ったりする。
この、物をやりとりするあやし方は、ありふれた方法に思えるかもしれないけど、ピアジェによると、赤ちゃんが概念を獲得するうえで、実はとても大切な実践らしいのだ。
ピアジェは、そんな媒介物としていろんな例を挙げているのだけれど、私が強烈に覚えている例はボールである。私なりに赤ちゃんとおとなとのボールのやり取りを解釈すると、次のようになる。
私たちは、寝ている赤ちゃんに「ボールでちゅよ~」と言って触らせてみようとする。赤ちゃんが座れるようになると、こんどは「コロコロ~!」と言いながら、ボールをゆっくり赤ちゃんの手元に向けて転がし、反応を見て、かわいくて仕方がなくってメロメロしている。どんなお宅でも一度は試されたことがあると思う、ほほえましいひとシーン。ピアジェに言わせれば、こうしたやり取りこそが、赤ちゃんが概念(シェーマ)を獲得するうえで、欠かすことのできない実践なのだという。
赤ちゃんは、まだ座れない頃、おとなからボールを示され、握ってみるというやり取りを何回も繰り返すなかで、自分とは別の物、すなわち「対象」があるらしいということは、なんとなく理解しているのだという。もっというと、あやしてくれるおとなやきょうだいが、自分とは別の人格だという事実も、0歳のそうとう早い時期から、すでに理解できているらしい(※2)。だから、自分が座れるようになったとき、ふいにおとなが「コロコロ~!」と言いながら転がしてくるボールもまた、自分とは違った「対象」物だと理解できるようになっている。
◇ボールコロコロ~で赤ちゃんのなかに育まれる概念
ところが、赤ちゃんは、転がってきたボールを、うまく掴むことはできない。ちょっと遠くに行ってしまったボールを、何とか掴もうと手を伸ばす。でも、「空間」の感覚がまだ未熟だから、どれくらい手を伸ばせばいいかとか、ちょっと移動すれば掴めるのに、といったことはまだ理解できていない。でも、おとなとのボール遊びを何日も続けているうちに、だんだんボールに近づけるようになる。そして、数か月のちには、ハイハイしながら、ボールを掴みに行くことができるようになる。つまり、このとき赤ちゃんは、「空間」のカテゴリーをようやく体得した、といえるわけなのだ。
それだけではない。今度は自分が「エイっ!」と放れば、相手に向かってボールがコロコロ~と転がっていくことを理解できるようになる。それはつまり、自分が投げればボールは転がるという「因果」関係を体得している、ということだ。そういうやりとりをもっと複雑化させていくうちに、「時間」の感覚も掴めるようになっていく。
このように、こどもは、赤ちゃんのときから、おとなやきょうだいとのやり取りを経て、徐々に徐々に、いろんな概念(シェーマ)を獲得していくという事実を、ピアジェは明らかにしたのである。おとなにとっては分かってて当たり前の概念でも、赤ちゃんがそれを獲得するには、長い時間をかけた、おとなや兄弟とのコミュニケーションが必要なのだ。
だから、たとえ大きくなったこどもに記憶がなくとも、乳児期から幼児期にかけてのいろんな経験は、とっても大事なのだ。それゆえけっして、私たちおとなは、「どうせなんにも覚えていないのだから」と言って、乳幼児期のこどもとの関わりを減らそうとしてはいけないのである。
こういった大事な視点を明文化し、私たちに気づかせてくれたピアジェは、やはり大発見をしたと私は思うのだ。
ちなみにピアジェは、自分のお子さんとのやり取りから分かってきたことを観察して『思考の心理学』を書き上げた、と述懐している。Cくんと一緒に太鼓を棚から取り出しながら、「ピアジェさんも、お子さんとのこうしたやり取りをしながら、自分なりの考え方を練り上げていって、『思考の心理学』を書いたのかもしれないな~」と、なんとなくそのときの雰囲気を感じられたような気がした。
◇親だけが覚えている、弘前ねぷたまつりのワクワク感
そういう思いに浸りつつ、Cくんが嬉しそうに叩く太鼓を見つめていたら、上の子どもたちとの太鼓に関する思い出が、よみがえってきた。
前の職場の関係で住んでいた弘前市では、春爛漫の5月になると、各地域でおおきな小屋が建てられていく。それは、実は、勇壮な扇ねぷたを作るための小屋である。そして、各地域では、小屋が建っていくのと同時に、ねぷたのお囃子の練習も始まり、町のいたるところで「タラ~、タラ~、タララリララ~♬」という音色が聞こえてくるようになる。この頃になると、鹿児島県出身の私でも、なんだかワクワクしてきて、はやる心を押さえるのに必死になっていた。
そんな弘前に住んでいた当時、この春中学3年生になる長男のAくんは5~7歳、おなじくこの春中学校へ進学する二男のBくんは3~5歳。どこかで拾ってきた木の枝をバチにし、段ボール箱をたたきながら、見事にねぷたのお囃子を再現していた。
でも、いまでは、二人は当時のことをまったく覚えていないという。けっこう年齢もいっていたのだし、2年間にわたり2回も同じ雰囲気を味わったのだから、とうぜん覚えてくれているだろうと思っていた。それだけに、親としてはちょっとショック。
このように、小学校に入るか入らないかの時分ですら、AくんとBくんが覚えていないのだから、いわずもがな、2歳のCくんは、今日の「太鼓で指イタ事件」が記憶に残ることはないだろう。
「でも、それでいいんだ」と、自分に言い聞かせる。ピアジェが言うように、乳児期から幼児期にかけての、こどもとおとなとの濃密なかかわりは、かれらのその後の人生をも左右しかねない概念を獲得するための、とても大事な時期なのだから・・・。
親は、自分の子が、ときにちょっぴり痛い思いをしつつ、いろいろ体験しながら、この社会で生きていくために必要なことを、少しずつ覚えていくお手伝いができたら、それでいいのだ、と思う。
ルソーが言うように、「いそいで獲得しようとしないものはきわめて確実に、そして速やかに獲得される」のだ(※3)。
【注】
(※1)J.ピアジェ著、滝沢武久訳(1968)『思考の心理学 発達心理学の6研究』みすず書房
(※2)M.れげアスティ著、大藪泰訳(2014)『乳児の対人感覚の発達 心の理論を導くもの』新曜社
(※3)J.J.ルソー著、今野一雄訳(1962)『エミール(上)』岩波書店、185頁。