◆こどもの受難への気づき
ここからは、勝手な忖度を通り越し、邪推にすぎないのだけれど、新海監督は、もしかしたら、陽菜ちゃんたちと同じような状況で毎日をなんとか乗り切っている子どもたちにスポットを当て、社会問題への注意を促されたのではないか、という気がする。
私が大好きなテレビドラマ『相棒』(テレビ朝日)でも、母親は不倫相手の大学講師と蒸発したにもかかわらず、中学3年生のお兄ちゃんが、小学校に就学する直前の妹を一人で育てつつ、半年近くもの間、思い出の場所を必死で守ろうとする話がある(『相棒9』第13話「通報者」)。親がいると思わせるため、母親のものだったセーターを、いつも洗濯物と一緒に物干しざおにかけるお兄ちゃん。でも、「お母さんのにおいをいつまでも感じていたいから」という妹のお願いでずっと洗わずに干していたのがきっかけで、右京さんに母親はもういないと見破られてしまう、切ないストーリー。
私が不勉強なだけで、そのように、こどもたちだけで思い出の場所をなんとか必死に守ろうとしている世帯が、この国に、実はたくさんあるのかもしれない。
◆居場所を守りたいという気持ち
そういうふうに必死で暮らしているこどもたちの存在に気づいたとき、私は、どのように対応すべきなのだろうか。ただたんに、児童相談所に通報すれば済む話なのだろうか。
幼少期の自分だって、病気の体をおして小学4年生まで育ててくれた伯母、定期的に手伝いに来てくれた祖母、そして父の誰もいなくなっていたら、どうなったか分からない。だって、そうなったときどうすればいいのかなんて予備知識を、大人は誰も教えてはくれないのだから。陽菜ちゃんが凪くんとお母さんとの思い出の場所を守ろうとしたのと同じように、遠くの親戚に迷惑をかけないようにしようと思いつつ、何とか近しい大人にもバレないように、妹と二人の居場所を死守しようとしていたかもしれない。
かなり前にテレビで見たのだけれど、スウェーデンには、身寄りのない子が、高校生から独立して暮らすのを社会的に支援する制度がある。もし、そういう制度がこの国にもあったとしたら。そんな制度がこの社会にもあったと仮定して、陽菜ちゃんと凪くんがもしも自分の家のご近所だったとしたら。
昨日、新海監督のメッセージを勝手な忖度(!)により戒めとして受け取った今となっては、私のとるべき選択肢は、おそらくひとつしかない。陽菜ちゃんが高校に入学するまで、自分たち夫婦が後見人になってふたりの面倒をみる、という選択肢しか。
◆妄想。帆高くんの選択肢
またもや勝手に繰り広げてしまったそんな妄想はともかくとして、新海監督は、そうしたこどもたちの存在に気付いたうえで、私たち大人に「いまのままでいいのかい?」と問いたかったのかもしれない。
ただ、スウェーデンのような制度がない現状でも、帆高くんは、働こうと思えば働ける年齢だった。高校を辞めて、須賀さんのところでがむしゃらに働いて、「自分が陽菜ちゃんと凪くんの面倒を見る!」、と大人たちに向かって主張できる可能性があった。「逃げよう」と言う必要はなかった。
でも、そのような第三の道を示してくれる大人は、皆無だった。陽菜ちゃんと帆高くんの周りの大人たちは、だれもが、自分の生活を守り、自分の立場を守るために汲々としていた。実際には、帆高くんはご両親から失踪届が出ていたから、これもまた叶わない妄想なのだけれども。
せめて夏実さんが「自分が面倒をみる!」と言ってくれていさえすれば、帆高くんが警察に追われるハメにはなっていなかったかもしれないのに、と、また別の妄想をしてみたりする。
こどもをとりまく社会環境の問題について、こんな妄想を抱きながら、監督のメッセージを予想しつつ、映画館での『天気の子』1回目の鑑賞を終えたのだった。