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2月19日付のブログで、合理的に考えればロシアのウクライナ侵攻はないのではないか、と書きました。ですが、その願いもむなしく、2月24日、プーチン大統領は、完全に国際法違反であるウクライナへの軍事侵攻を開始してしまいました。
ウクライナでの惨状をみるたび、いろんな思いが浮かんではくるのですが、〈ブログに書くにはその前に知るべきことが多すぎる〉、〈でも、抱えている原稿の執筆がぜんぜん進んでいないから、そんな時間をとることはできない・・・〉、そうしたジレンマのはざまで、思いをブログに記すのを躊躇しているうちに、どんどん時間が過ぎてしまいました。ところが、どうやら、原稿が進まないのは、浮かんでは消える思いを書き留めておきたい、という欲求が叶えられていないからではないか、と気づいたのです。
そこで、お世話になっている出版社の方にはたいへん申し訳ないのですが、今日から、ロシア軍のウクライナ侵攻から考えたことも、仕事の文章と並行して書いていきたいと思います。
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プーチン大統領がウクライナを侵攻した理由として、いろんな背景の存在が指摘されています。
ウクライナの東部2州に関する独立の動きの問題。
プーチン大統領がもつと噂される帝政ロシア期の版図復活への野望、という問題。
私としては、こういった問題を探るための前提として、どうしても、ウクライナの歴史を知っておく必要があると思っていました。
そこで、今日から立ち上げるテーマ【ウクライナ問題】は、まず、ウクライナの歴史を年表風にまとめる作業から始めたいと思います。歴史を抑えておくことが、これからロシアのウクライナ侵略について考えるうえでの大前提となるからです。
といっても、私はウクライナの歴史についてはまったくの素人です。ですので、今後、抜けている部分に気づいたら、そのつど補足していこうと思います。
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〇ウクライナの歴史1〇
◆9世紀
▽「第二の民族移動」と呼ばれるノルマン人の移動が始まる
※ノルマン人とは(「世界の歴史まっぷ」より)・・・「スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸(現ノルウェー、デンマーク、スウェーデン)に原住した北方系ゲルマン人。9世紀、ヨーロッパ各地を侵略し、次々に国を建国した。」
※8世紀ごろからノルマン人によるスカンジナビアでの国家(スウェーデン、ノルウェー、デンマーク)形成の機運が高まった。しかし、9世紀に入ると、その動きに乗り遅れ「故国で志をえなかった小首長たちは、不平分子を引きつれ、ヨーロッパ各地を荒らしまわりはじめた」(鯖田豊之〔1989〕『世界の歴史9 ヨーロッパ中世』河出書房新社、95頁)。
※「かれらノルマン人は、当然、バルチック海から、ロシアの諸河川、黒海地方を経て、東部イスラムと結んでいたことになる。リューリクにひいきられたノルマン人の一派が862年にロシアに上陸し、スラヴ族を圧倒して、ノヴォゴロドを中心に建国したと伝えられるのも、おそらくこうした通商路の開拓をめざしてのことであろう。」(同上書、96~97頁)
▽882年 ノブゴロド国のオレーグ公がドニエプル川沿岸を征服してキエフに都をおく
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◆10世紀(キエフ公国の誕生)
▽912年 オレーグ公がリューリクの子イーゴリを大公に推し、キエフ公国が誕生
※ここで重要なのは、キエフを都とする版図が、黒海沿岸ではなくて、ドニエプル川沿岸一帯に北方へ拡がっていたこと。キエフはむしろ南端域だった。
※征服したオレーグ公や公国を立ち上げたイーゴリ公らはノルマン人だったけれども、多数派のスラヴ人に次第に同化されていった。
▽10世紀末 ビザンツ皇帝の妹と結婚した大公ウラディミル1世は、ギリシア正教を公認宗教へ
※このころには、黒海からバルト海にいたる広大な版図が築かれ、交易で反映していた。ギリシア正教を公認の宗教としたことで、ビザンツ文化が流入した。
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◆11世紀
▽前半 ヤロスラフ1世(賢公)治下で、ギリシアの修道士の指導のもとに最古の法典『ルースカヤ・プラウダ』(『ルス法典』とも)が編纂される。
→『ルス法典』とは、それまでの慣習法や判例、諸公国のほうを基礎とした法典で、プスコフ、ノブゴロド、ウクライナ、白ロシア(現在のベラルーシ地域)、リトアニアにおける法律の基礎となった。これにより、古代ロシアの社会組織が整備された。
※キエフ公国の版図は、このころ、北は白海から南西はポーランド王国やハンガリー王国と接するまでに広大になっていた。現在のベラルーシはキエフ公国の版図に含まれていた。
▽ヤロスラフ1世の死後、諸侯の政治的自立が始まって皇位継承をめぐる諸侯間の争いが起こる
→そのためキエフは内乱状態に落ちった。
▽11世紀末~ 黒海方面の遊牧民族ポロベツ (クマン) 人が侵入
→こういった争いや侵入により国土が荒廃。
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〇13世紀(キエフ公国の滅亡)
▽1240年 モンゴルのパトゥ率いるキプチャク・ハン軍の侵入によりキエフ公国滅亡
→以降、黒海沿岸部も含めキプチャク=ハン国の支配下に
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【参照した文献やWebサイト】
・鯖田豊之(1989)『世界の歴史9 ヨーロッパ中世』河出書房新社
・浜島書店編集部(1997、改訂版2016)『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店
・『世界の歴史まっぷ』https://sekainorekisi.com/
・『世界史の窓』「キエフ公国」http://www.y-history.net/appendix/wh0601-125.html
・『コトバンク』https://kotobank.jp/ の「キエフ公国」等の項目